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| 1979(2008)年 7月31日 火(木) <ウォーホリック日記> |
アンディは、ロン・フェルドマンから制作を依頼されている「十人のユダヤ人の天才」シリーズに、チャーリー・チャップリンを加えるべきかどうかウディ・アレンに相談していた。
二人の見解はこうだった。「チャップリンは本当にユダヤ人なんだろうか」。結局のところ、このシリーズにチャップリンは入らない。
僕は午前中に仕事をすませて、午後は自宅で小説を書いていた。秋葉原の無差別殺人をきっかけに書き始めたものの、まっすぐそういう話にはなりそうもない。
先日Sさんがこの事件に関する内田樹氏の「記号的な殺人と喪の儀礼について」という記事を教えてくれて、それを読むとこんなことが書いてあった。
「人間の身体の厚みや奥行きや手触りや温度を『感じて』しまうと、人間は他人の身体を毀損することができない。(略)他人の人体を破壊できるのは、それが物質的な持ち重りのしない、『記号』に見えるときだけである。(略)『異教徒』であれ、『反革命』であれ、『鬼畜』であれ、『テロリスト』であれ、それはすべての人間の個別性と唯一無二性を、その厚みと奥行きとを一瞬のうちにゼロ化するラベルである。(略)今回の犯人の目にもおそらく人間は『記号』に見えていたのだろう思う。『無差別』とはそういうことである」
この考え方に、僕は大いに納得するところがあった。内田氏はこうとも言っている。
「私はこういう事件のときに語られる社会心理学的なあるいは精神病理学的な説明に対してはいつもambivalent な気持ちを感じる。(略)けれども、どこか「説明過剰」になっているような気がするのである。(略)説明すべきでないことまで説明してしまうことによって、説明されることによって生成した局所的秩序を上回るような無秩序がそこに増殖してしまう」
すなわち、犯人の「闇の部分」を明らかにすることこそが事件理解への最短の道と考えることへの疑問。この点についても、大いに共感するところがあった。こうして、僕は今、しばらくこの事件に関する何かを書くのをやめておこうという気になり始めている。
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